言葉の相対性
前回の続きです。
と言っても少しずれるんですけどね。
言葉の定義がそれぞれの人によってズレていたり違っていたりすることによる無駄ないさかいが、世の中は非常に多いと感じます。
僕は趣味で将棋をよくやるんです。天下の羽生善治さんは、子供が将棋に強くなる方法は?と聞かれて明快にこう答えています。
「わざと負けてあげることです」
羽生善治さんが子供の時も、きっと近所の強いおじさんがわざと負けてくれたりしたんでしょうね。そして、それも、わざと負けてるの丸出しではなく、子供のときはそれと気づかないように負けてた。
で、大人になってから、その優しさに気づく。ええ話やないですか。
そして、自分が大人になって、今度は同じように負けてあげる。優しさのバトンをしっかりと落とさずに次世代に渡すわけです。素晴らしい。
余談ですが、プロ棋士はアマチュアとやる時、ギリギリの勝負を演じながら、わざと負けてくれるそうです。僕も、飛車と角を落としてもらってやったことがありますが、わざと負けてくれました。優しい。
で、話を戻します。言葉はすべて相対的なんです。だから、絶対的ではない。
将棋において“正しい”指し方とは、どういう指し方でしょうか?
盤面だけのレベルで言えば、一番良い手が、正解になります。
子供のために負けてあげるというレベルで言えば、ギリギリで負けてあげる一手が正解になります。
その手も、相手のレベルによって、様々です。小学校二年生ぐらいなら、この手で負けてあげよう、とか六年生ならわざと負けてあげると気づく可能性があるから、この手にしよう、とか。
とかくこの世の中は相対的に正しいというものが決まる。
なので、みんな、もっとテキトーでいいのです。はい、論破〜、なんて言葉が流行ってますが、論破は、通常できないもんで、論破することがうまい人は、きっと、議論をごまかすのがうまい人なのです。
だから、僕が虚業とひとことで言っても、どのレベルで言ってるのかということを確かめてから、聞いてもらうと助かるという長々とした注釈でした。
この辺の言葉のすれ違いというのは、生きてて非常にめんどくさいところですね。
一度整理して発表したいと思っております。
虚業とはどこまでのことを言うのか?
世の中のほとんどの職業が虚業ではないかというところまでは、論じました。
さて、虚業ってなに?っていうところのデリケートのお話をしたいと思います。
僕は現在は、お笑い芸人をしておりまして、他人のことをどうこう言えない、まぁ、虚業やなあと自分でやってて思うわけなんです。
で、虚業っていうのは、本来必要ではない仕事っていうことです。
で、必要じゃないなんて言われたら憤慨する人もいると思うので、言葉がもたらすこのくだらないすれ違いについて、今回はお話をしたいと思います。
鍵屋さんは、必要?
これで必要かそうでないかの大げんかをすること自体がナンセンスなんですね。
どのレベルで言ってるかによるのです。
お釈迦様の法話のお話を思い出してほしいのですが、泥棒がいなければ、鍵屋さんはいらないですよね。
このタラレバの世界、あるいは、人間がロクデモナイことを前提としてない世界では、鍵屋さんは不要です。
世の中が殺伐としていなければ、お笑い芸人なんて不要です。
でも、米を作ってくれる人がいないと命は困ります。僕の考えでは、命にまつわる仕事をしている人が本来、世の中に必要なことをしてくださっていると思うのです。
医者もそう。家を作る人もそう。どの時代だって、それは必要とされているんです。
この根源的に必要な職業は、僕は敬われるべきだと思っています。だから、ちょっと売れたからって、鼻くそみたいな音楽を作ってるミュージシャンがイキってるのを見るとムカムカします。
てなわけで、みんな、虚業のほうにチヤホヤする変な世の中です。僕は、根源的に必要な職業ではなく、こちらが勝手にやりたいという欲望でお笑いを作っているので、せめて謙虚であれと、自分に言い聞かせています。
僕は自分のことをよく天才といってますが、とても謙虚で我ながら惚れ惚れします(笑)。
天才と自分で言うことがどれだけ謙虚なのかということを、また機会があれば真面目にお話したいと思います。
次回は、重要な考え方なんですが、言葉の相対性について、詳しく語りたいと思います。将棋の羽生名人に登場してもらいます。
まとめ
ということで、仕事とは何か、について、お猿の頃から、本質として言えること、そして、現代の多様化した職業について、虚業の観点から考察してきました。
それぞれの結論をまとめる。
①仕事はしなくてもいいがしないと、飯が食えないから、好きとか嫌いとかいう次元のものではそもそもないということ。
②現代の仕事のほとんどは虚業であり、本来的に必要ではない職業が多く、一人に最低一個は職業がないといけないという呪縛の元、職業を無理矢理作り出し働くという、“虚しい”作業をやらされている人が多い。
さて、この分析に対して、異論もあるかもしれませんが、そこらへんは、コメント欄にでも書いてください。
さて、この虚業について、誤解や不快感を与えてはいけないので、次回、もう少し具体的に掘り下げていきたいと思います。
テレアポから学んだ虚しさ
昔、僕はテレアポのバイトをしていました。インターネットの料金が安くなるとか、うんぬんで一般家庭に電話をかけていくやつ。
虚業そのものやなあと感じたのがね。
テレアポっていうのはテレアポの機能さえあれば別にどこの会社のどんな商品を売っても構わなかったりするんですよ。
代理店の代理店みたいな感じやったりしたので。二次代理店ってやつかな。
一ヶ月間「A社のほうが、B社より安いですよ」みたいな感じで、電話をかけ続けたんです。
実際は、B社より安いですよという言い方は法律にひっかかるのでアウトですが、まぁスレスレな感じで、そういう感じではかけてたんです。
で、次の月、B社の部署に変わりましたから、と言われて。
「B社のほうが安いですよ。A社より」
と電話をかける生活。
これで、先月はA社からバイト代をもらい、今月はB社からバイト代をもらう。なんやこれ。
逆やったらすごいことですよ。A社を宣伝せなあかんときにB社がいいですよって電話して、B社を宣伝せなあかんときにA社を宣伝して。給料もらえるどころか罰金ですよね。
この虚業っぷりは、なんなんや。
テレアポは戦争と似てる。虚業なので、騙してでも、金がほしい。一般宅は敵国。向こうからしたら営業電話なんて迷惑に決まってるんですよ。
でも、断られたら、【くそっ!死ね!」とかみんな平気で言うてる。
僕はついていけないので、辞めました。
このあたりの虚業っぷりについては、僕の書いた【営業電話の達人への道】http://novel.fc2.com/novel.php?mode=tc&nid=195000というふざけた小説に活かされているので、興味のある方は一度読んでみてくださいませ。
とにかく、虚業は虚しいのです。役に立っている使命感を嘘でも作ることに必死な社会。洗脳社会なんです。
虚業だらけの世界
さて、猿の頃の仕事論は非常にシンプルで清々しいですね。
やらなあかんことはないで。でも、やらな飯食われへんだけやで。
その程度のものです。
人間の仕事は、なぜこんなにもややこしくなってしまったのか。ここから始めたいと思います。
仏教の法話の中でこういうのがあるようですので、ざっくりそこから引用。思い出しながらの雑な文ですので、正確さを求める方は各自で調べてくださいませ
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むかしむかし。人間は、1日に一回木の実を一個取りに行き、その一個を毎日食べて暮らしていました。
ところがある日、怠け者が、一回で一個だけとるのは、面倒臭いので、明日の分もとろうと、木の実を二個とるようになりました。
するとそれを見ていた人間が、俺もそうしようと、1日に二個とるように。
みんなが真似をしはじめ、1日に二個、三個と、とる量が増えていき、木の実が木からなくなってしまいました。
そのため、奪い合いが起きるので、蔵を作る人が現れました。蔵を作る人、泥棒を取り締まる警察官、倉庫の鍵を作る鍵屋さん、窃盗のために人を殺す殺人犯、ルールを作る政治家、それまでは必要なかったたくさんの職業がうまれました。
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ざっとこういうお話。これは僕は非常に正しいと思うのです。お釈迦様が考えたこととは別で、僕も昔から、この世の中のほとんどの職業は虚業なのではないかと思っていました。
だって、色んな職業において、イノベーションが起こり、昔なら500人でやっていた仕事が5人で、みたいに効率化されているのです。なら、残りの495人は、別に働かなくてええやんってわけにはいきません。
一人に一個職業は必要よね、という呪縛から我々は逃れられないのです。
「お前、働かへんのやったら、俺も働かへん」ってなるか、「働かへんやつはしばきたい」となるからですね。
兎にも角にも、世の中のほとんどの職業は、本来は虚業で、いらんことしてるか、あってもなくてもええよねレベルのことをしてるわけです。
虚業の“虚”とかいて、虚しいと読めますよね。そうなんです。だから、みんな虚しいのです。
一人に一個の職業が絶対必要という変な呪縛があるので、水素水が体にええとか、マイナスイオンがどうたらこうたらとか、嘘だろうが、なんだろうが、無理矢理にでも需要を生み出す世の中になります。需要になりさえすればなんでもよくなります。
日本の高度経済成長のひとつのきっかけとなったのは、皮肉なことに朝鮮戦争でしたよね。いわゆる朝鮮特需というやつです。
別の国で戦争が起こると、直接は関係ない国が儲かったり。
なんとまあ、ろくでもない世の中なんでしょう。
そりゃ、仕事が虚しいし、苦しいのは、当たり前です。虚業が多いんやもん。前回の猿の仕事論を読んでスッキリしなかった人は、今回の分はしっくりきたのではないでしょうか。
虚業の話で、昔バイトでやっていたテレアポの話が分かりやすいので、次回そのお話をしたいと思います。
猿から考える【仕事論】
このブログはあくまでも実践哲学の場である。
なので、少しは役に立つことを考えないといけない。ということで今回は、かなり真面目に、一番悩みの中で多いであろうものの中から一つ。
“仕事とは何か?”について。
僕は基本的に、お猿さんの頃の人類で考えると、この手の問題はわかりやすいと思っているので、仕事の本質について、猿になったつもりで一緒に考えましょう。
我々の祖先が木から降りて洞窟に暮らしていた頃、祖先は食い物を捕獲するために狩りをします。狩りが失敗すると、食べ物がない。それだけの生活です。仕事っていうのは、それだけ。
好きも嫌いもないのです。しなかったら食っていけないからやるだけ。たまたま狩りをするのが好きな猿もいたかもだし、狩りをするのが嫌いな猿もいただろう。
でも、好きも嫌いも関係なく、みんながやっていた。それが仕事。
だから、嫌いでもともと。仕事っていうのは我慢の連続だからだ。我慢しまくったから、今月の我慢代はこれですよって言ってたお金をもらえる。
それだけのこと。
だから、仕事はしんどくて当たり前。
猿の頃と違って、仕事を辞めても他の仕事をやればいいのだから、楽そうな方を選べばよいし、それができないなら、ゴチャゴチャ言ってはいけない。
次回、もうちょっと具体的に、猿ではなく、人間の仕事について、語る。
メザシの頭から考える哲学
僕はメザシの頭を残す奴が嫌いである。
もっと正確に言えば、メザシの頭のみを残す奴が嫌いである。
今回はメザシの頭を食べない奴について考察することによって、哲学の一貫性について、研究したいと思う。
哲学というものは基本的に普遍的なものを扱い、かつ普遍的な答えを目指すものである。なので、【サイコロを今からふるが、何の目が出るだろうか?】は、哲学のテーマにはなりえない。
いくら哲学っぽい感じで表現してもである。
【神がつくりたもうたこの世界において、神が与えしこのサイコロを投げた時、そのサイコロの流転が止みし時、天を向いている選ばれしその数字は一体なんであろうか?】
と言っても無駄である。あかんもんはあかんのである。
というわけで一貫性のお話。
メザシをバリバリ食ってるってことは、味は嫌いではないのである。それを頭だけ残すっていうのが、ダメ。
僕は一貫性のなさが嫌いなのです。
だって頭も味いっしょやもん。
味自体が嫌いで、わたしは一切食べない、とか、そういうことは、僕は否定しない。
でも、途中まで食うってことは味は好きなのだ。要するに、見た目がグロいから、食べたくないっていうだけである。
なんじゃそれ!単なる生き物に対する冒涜である。
かなり荒いことを言ってるのは自覚しています。メザシの頭を残す人に聞いてみたところ、気持ち悪い、という意見がほとんどでした。
中には、味も嫌いだと。食感がそこだけ悪いという人もいました。こういう人は一貫性があるから好き。
結論。
メザシの頭のみを残す奴は、セックスが終わったら態度が変わる奴である