価値観のコペルニクス的転回

価値観のコペルニクス的転回について。

僕はね、非常に理屈脳で、筋の通らないことが嫌いなのです。哲学というテーマのもとでは、感情に流されていては真実へとたどり着くことはできません。


そこで、今回はこういう人は哲学には向かない、という人を紹介していきたいと思います。


料理番組にて。


「盛り付けを色鮮やかに、このように立体的にします」

この瞬間にグチャ!立体的でなくなってしまった。実際に僕が観た番組です。すると料理の先生は、急にこう言ったのです。

「まあ、胃の中に入ればいっしょですからね(笑)。味は変わりませんので。うふふ」


は?なんだ、その価値観の変貌は!?


料理は見た目が大切ってお前がさっき言ったんやろ!

アホか!哲学には、向いてないからお前は、料理の先生とかやってろ!

 

次の例。


「大丈夫やって、ほんまになんもせえへんって。家でいっしょにDVD観るだけやん」

数分後


「男の一人暮らしの家に女が一人で来て、なんもないわけないやん」

は?

お前は、哲学者にはなれないから、AV男優でもやってろ!

 

このような例は、枚挙にいとまがないのであります。


みなさんは、論点を急にずらすということをしないでくださいね。


最初の例は、論点ずらしです。


料理は見た目が大切。


ということと。


胃に入ればいっしょ。


ということは、別のことを言ってます。

 

せめて、こう言ってほしいもんです。


「料理がグチャッとなりました。見た目は損なわれました。しかし、プラス思考で考えましょう。味は無事です!」

 

二個目の例では、もっとひどいです。完全にウソをついてるからです。


せめてこう言ってほしいもんです。


「家でDVD観るだけやんと言ったが、嘘でした。セックスするのでしたあ。ドッキリでしたあ」


他の例もあげときましょう。


「俺、ちんこめっちゃでかいで」


二時間後。


「え?ちんこ普通の大きさやった?でも、気持ちよかったんやろ?ほな別にええやん」

 


ちんこめっちゃでかいでという嘘に対する償いで、お前はこれから毎週日曜日に教会に通え!

さて、“教会”とはなんでしょう?


みなさんも、考えてみてくださいね(^_^)

 

プロペラとは何か?

このブログは、実践哲学の研究所ですので、必ずしも【愛とは何か?】とか【自由とは何か?】というテーマだけではなく、ごくごく普通の言葉についても深く考察していきます。

 

そのほうが、実際の生活に役立つからです。

 

 

今回のテーマはプロペラとは何か?です。

 

 

 

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一人の女が自分のオッパイをブルンブルンとまわして、空を飛んでいました。地上に歩く男は驚いてそれを見ました。

 

すると、女は降りてきて男に言いました。

 

 

「あんた!ウチのオッパイ見たやろ?」

「あ、いや、見たって言うか、その」

「見たか見てないかで答えられるやろ!見たやろ?」

「いや、見たかもしれないけど、その時は、プロペラだと思ってたので」

「プロペラちゃうわ!わたしはオッパイをプロペラのように使っただけや!」

 

 

 

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この場合、この女性のオッパイを見ることははたして、セクハラになるのでしょうか?

 

空を飛ぶために使うものがプロペラなのですよね。ですが、この女性は、プロペラではないものをプロペラのように使ったわけです。

 

 

だからオッパイです。オッパイを見たこの男はセクハラ野郎です。

 

 

ここで、こういう意見が出てくるかもしれません。プロペラのように使ったら、それはオッパイではなくプロペラなのではないか?

 

 

違います。

 

 

漬け物をつけている蓋の上に、女性を乗せます。

 

 

そして、その上でオッパイを触ったとします。警察が駆けつけた時に、「いや、漬け物の蓋の上にいたので、その時は漬け物石だと思ってました」

 

 

これが通用しますか?

 

 

しませんよね。

 

 

そもそも、女性を漬け物石にするという発想が非常に差別的です。あ、それは俺が言ったんや。

 

 

 

まぁ、とにかく、自分のオッパイをプロペラのように振り回して空を飛んでる女性がいても、男は見てはいけません。

 

 

セクハラのない世の中を目指したいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログタイトルの始発と終電についての考察

始発の電車に乗ると、車両を見渡せば乗客の顔が死んでいます。

 

 

終電に乗ると、車両を見渡せば乗客の顔が死んでいます。

 

 

わたしは、思いました。始発と終電の電車をなくせばいいのに。

 

 

しかし、ここで疑問が生じます。始発と終電の電車をなくしたら、始発の次に出る電車が始発になって、終電の一本前に出ていた電車が終電になるだけではないのか?

 

 

と。

 

 

そして、本当にそれで人は幸せになるのだろうか?

 

 

始発師匠と終電師匠が落語をしていた頃と、その一番弟子に名前をやって、それぞれの師匠が引退し、新しく襲名した、新始発師匠と新終電師匠のくりひろげる落語の世界。

 

 

はたして、どっちがマシなのでしょうか。

 

始発師匠と終電師匠の落語は、そもそも人々の顔を死なせていたわけですが、僕の予想では、その実力は、少し劣って、弟子に伝わります。

 

 

新始発師匠と新終電師匠は、顔の死なせ方がまだまだ甘いのです。早起きがちょっと楽になるし、家に帰るのがちょっと早くなるわけですからね。

 

 

と、いうことで、この同じ理屈を繰り返していき、始発師匠イコール終電師匠になってしまう状態になったと仮定します。

 

 

言ってることわかりますか?

 

 

1日に電車が一本しかない世界がやってきたとします。

 

 

顔の死なせ方がどんどん甘くなっていくのですから、逆に言えば電車に乗っている人の顔はイキイキしてくるのです。

 

 

 

これぞ実践哲学!

 

 

みなさん、始発と終電の電車をなくしましょう。みんな幸せになります。

 

始発と終電の電車はなくせるか?

はじめまして。私はハクション中西と言います。

 

趣味で哲学の研究をしております。今までの哲学は、正直、難解で、わたしのようなアホには役に立たないと判断し、この研究所を開設いたしました。

 

 

今までの哲学は、正直、実践的ではなかったのです。

 

 

遅刻しそうな時に、【そもそも人生とは?】は役にたちません。

 

考えている余裕もないですよね。

 

 

そこで、この研究所では、もっと実践的なことを研究します。

 

 

たとえば、あなたがすごく優しい彼氏とつきあっていて、見た目もタイプで、お金も持ってるし、愛し合ってるとしますね。

 

で、家に行った時に彼氏の家のトイレで、東急ハンズとかに売ってる、おもんない四コマ漫画がプリントされたトイレットペーパーがあったとしますね。

 

 

これは、別れたほうが良いです。あんなもん買うやつの気が知れないからです。

 

 

きっとその彼氏はつきあってしばらくすると、暴力をふるってきます。

 

 

で、その時に気づくのです。確かに少しおかしなところがあったと。

 

 

おもんない四コマ漫画のプリントされたトイレットペーパー買ってた!って。

 

 

え。どこが哲学やねんって??

 

 

まあ、哲学者だなんて言ったもん勝ちなんです。

 

 

僕は、まだ宇宙に行ってないだけで、自分の職業を宇宙飛行士だと思ってますから。

まだ宇宙に行ってないだけです。

 

 

なんなら、宇宙に行っても、多分おもんないことを見抜いてる優秀な宇宙飛行士です。

 

優秀ではない宇宙飛行士は、それが行ってみないとわからないから、行きたがるのです。