ブログタイトルの始発と終電についての考察

始発の電車に乗ると、車両を見渡せば乗客の顔が死んでいます。

 

 

終電に乗ると、車両を見渡せば乗客の顔が死んでいます。

 

 

わたしは、思いました。始発と終電の電車をなくせばいいのに。

 

 

しかし、ここで疑問が生じます。始発と終電の電車をなくしたら、始発の次に出る電車が始発になって、終電の一本前に出ていた電車が終電になるだけではないのか?

 

 

と。

 

 

そして、本当にそれで人は幸せになるのだろうか?

 

 

始発師匠と終電師匠が落語をしていた頃と、その一番弟子に名前をやって、それぞれの師匠が引退し、新しく襲名した、新始発師匠と新終電師匠のくりひろげる落語の世界。

 

 

はたして、どっちがマシなのでしょうか。

 

始発師匠と終電師匠の落語は、そもそも人々の顔を死なせていたわけですが、僕の予想では、その実力は、少し劣って、弟子に伝わります。

 

 

新始発師匠と新終電師匠は、顔の死なせ方がまだまだ甘いのです。早起きがちょっと楽になるし、家に帰るのがちょっと早くなるわけですからね。

 

 

と、いうことで、この同じ理屈を繰り返していき、始発師匠イコール終電師匠になってしまう状態になったと仮定します。

 

 

言ってることわかりますか?

 

 

1日に電車が一本しかない世界がやってきたとします。

 

 

顔の死なせ方がどんどん甘くなっていくのですから、逆に言えば電車に乗っている人の顔はイキイキしてくるのです。

 

 

 

これぞ実践哲学!

 

 

みなさん、始発と終電の電車をなくしましょう。みんな幸せになります。