メザシの頭から考える哲学

僕はメザシの頭を残す奴が嫌いである。
もっと正確に言えば、メザシの頭のみを残す奴が嫌いである。


今回はメザシの頭を食べない奴について考察することによって、哲学の一貫性について、研究したいと思う。


哲学というものは基本的に普遍的なものを扱い、かつ普遍的な答えを目指すものである。なので、【サイコロを今からふるが、何の目が出るだろうか?】は、哲学のテーマにはなりえない。


いくら哲学っぽい感じで表現してもである。


【神がつくりたもうたこの世界において、神が与えしこのサイコロを投げた時、そのサイコロの流転が止みし時、天を向いている選ばれしその数字は一体なんであろうか?】


と言っても無駄である。あかんもんはあかんのである。


というわけで一貫性のお話。

メザシをバリバリ食ってるってことは、味は嫌いではないのである。それを頭だけ残すっていうのが、ダメ。
僕は一貫性のなさが嫌いなのです。


だって頭も味いっしょやもん。

味自体が嫌いで、わたしは一切食べない、とか、そういうことは、僕は否定しない。

でも、途中まで食うってことは味は好きなのだ。要するに、見た目がグロいから、食べたくないっていうだけである。


なんじゃそれ!単なる生き物に対する冒涜である。


かなり荒いことを言ってるのは自覚しています。メザシの頭を残す人に聞いてみたところ、気持ち悪い、という意見がほとんどでした。

中には、味も嫌いだと。食感がそこだけ悪いという人もいました。こういう人は一貫性があるから好き。

 

結論。

メザシの頭のみを残す奴は、セックスが終わったら態度が変わる奴である